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県民性 [番外編]

 明石に暮らして丸3年が経ちました。

 息子はまるでこの地で生まれ育ったかのようにすっかり地域に溶け込んでいますが、私はいまだよそ者根性が抜けず、よく人から「お国はどちら?」と尋ねられます。
 「松本です」と答えると、中には「何県だっけ?」と聞き返す地理音痴がいて、「長野です」と言い直すと「ああ、善光寺のある所ね」という展開になり、善光寺など小学校時代に長野見学の授業で一度しか行ったことがないのに、これを境に私は後々まで善光寺出身者としてイメージされることになるのです。

 他の都道府県からみれば、長野も松本も飯田も上田も、同じ長野県には違いありません。
 
 学生時代、大学院の専攻を決めるために講座回りをしていた時のことです。
 第一希望の講座で教官に出身を聞かれ、
「信州の松本です」
と答えたところが、それまでにこやかだった教官の顔が一変。いかにも憎々しげに、
「信州人は理屈っぽくて困ったものだが、あんたもそうかね?」
と尋ねてきたのでした。
 
 この予期せぬ質問に、ただ「いいえ」と答えるのも芸がないし、「はい、もちろん」とけんかを売る勇気もなく、一時考えた末に「人によりますから…」と答えたのが、かえって癇に障ったか…。
 同じ信州人でも理屈っぽい人もいればそうでない人もいるのはあたりまえのことで、受け取る側のひねくれ具合も大いに”人による”わけで…。
 この信州人嫌いの東北出身者は、上田出身の別の講座の教官と犬猿の仲で、”坊主憎けりゃ袈裟まで”の諺通り、”上田憎けりゃ松本まで”気に入らないのでした。

 長野県の職員を夫に持つ友人は、結婚以来3、4年おきに県内を転々としていますが、北信、中信、南信とそれぞれ人種がまったく違うと言います。
 これは気候によるものか、隣接する他県の影響か、はたまた都市と田舎の差か、理由はわかりませんか、長野県は広い、というのが実感です。

 それは兵庫県にしても同じことで、初めて地図帳を開いた小学生の頃から知識として持ってはいながら、明石と神戸、姫路、城崎といったまったく特色の異なる町が、同じ兵庫県であるということに改めて気づいた時には、もう一度穴が開くほど地図帳を見つめ直したものです。

 さらに関西というくくり方にしても、関西圏外の人にとってはイメージしやすい集団ですが、その圏内では大阪、京都、神戸がそれぞれに個性を主張し、互いに同一視されることを嫌がる傾向にあるようです。

 時折、テレビのニュース番組中、長野からの中継で懐かしい会話の響きを耳にすることがありますが、明らかにそれとわかる方言などなくても、独特のイントネーションが私の鼓膜を刺激します。
 長野県民には、共通した話し言葉のニュアンスがあります。
 語尾の「ね」にアクセントを置く妙に説得力のある話し方には、理屈っぽさを超越した真摯な県民性が表れているようで、私は好きです。

 だから、善光寺のある長野出身者と誤解されても信州には違いないし別にかまわないではないか、と思う一方で、それでもやはり長野と松本とは全然違うのに一緒にしないでくれ、と叫びたい気持ちもあって、この葛藤はなかなかに複雑です。

 先日折をみて誤解者に真実を告げたところ、
「どっちにしても信州人には違いないやろ。やっぱり信州人ってのは理屈っぽいねえ」
と言われて、私は自分が理屈っぽい信州人の一人であることを、ここで再認識するはめになったのでした。



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